市民ジャーナリズム

知ろう

市民ジャーナリズムを考察

自分たちで情報を発信する側に廻る

インターネット、SNSといった情報ツールが普及し始めてから我々の生活環境は劇的な変化を遂げることに成功したといっていいだろう。それまで情報はテレビや新聞、雑誌といったところでしか取得できなかったのが、インターネットが普及したことで様々な情報を取得することが出来るようになっていった。また携帯やスマートフォンなどを利用することで、それまで情報を受け取る側でしかなかった市民達がかえって、今度は自分たちで情報を発信する状況になっている。これを幸か不幸かというべきなのかだが、テレビに関する仕事をしていない人々からすれば自分たちがマスコミと同じようなことをしていると、新しいことに興奮を始めとした感情を持っているだろうとは思う。そうでなくても、情報を発信するだけであるなら、ブログなどでも何かと発信することが出来るようになっているのも特徴だ。

こうしたメディアをどのように活用するかで様々な情報を発信することが出来るようになったため、一人ひとりが求める情報量も増えていく。ただ人によっては知りたい情報も違えば、知りえている情報が本当に世の中に広まっているかどうかなど、計れなかった。それが今の新しいメディアとして可能性が求められている点でもあり、それを実現するためにと試みが行われていたこともある。誰もがジャーナリストとして活動して、そして自分たちでニュース記事を作成する。取扱うニュースも新聞などで報道されないものも全て含めた情報サイト、日本インターネット新聞『JANJAN』がかつて存在していた。そこでは本来知りえることのないニュース、普段のニュースでは見たことがない情報なども確認することが出来るようになっており、利便性が開設当時は期待されていた。

しかしながら、2010年には休刊することが発表され、その後ブログなども停止するなど完全にすべての事業から撤退することになる。これからの日本において新たな可能性を秘めていると考えられて始められた市民ジャーナリズムという可能性、日本以外の海外では盛んに行なわれているという。だが日本には市民ジャーナリズムという考え方そのものが普及していない状況にある。どうして日本で市民ジャーナリズムは受け入れられにくいのかを考えてみると、そこにはやっぱりというか日本らしい特徴が垣間見えてくる。

責任の一端を担わなければならない

インターネット上にニュース、特に世間一般に関する事象について何かしらの記事を作成する際、注意しなければならないのはその情報がキチンとした背景があってこそのものなのかということだ。憶測や噂、ならびに予測という段階の話題を提示する事は、ニュースというそのものの根幹を揺るがすことになるためしてはいけないことだ。そのため、新聞などの記事を作成している人達は念入りな情報収集を行わなければならない、情報を取得する方法についてはそれぞれだが、やはり特集するテーマに関して特別な情報を仕入れることが出来る人間に頼むのが現実的だろう。

ただ先述にも話したが、誰もが情報を簡単且つ、気軽に発信できるようになっているため、現代社会では嘘か本当、この区別をつけなければおそらく日本単体とした国家だけで考えても、恐ろしいくらいの情報量が蔓延している。そこから真偽を見抜くためにも地道な現地調査、またそれこそ火中の人に直接話を伺うかなどの手段を用いて真実か虚実かを見極める必要がある。だがそうした情報に対しての信憑性についてきちんとした背景を持っている人は、そうそういないと思う。あちこちで見られる情報の中から確かに本当のことが隠されているのかもしれないが、真実である証拠は何処にもないからだ。そういう意味では2チャンネルなどの匿名掲示板で記載されている情報も、何処までがソースをもって書き込んでいるのか知れたモノでは無い。そういった情報を紹介している振りをしつつ、広告料を少しでも獲得するための手段として用いるような人もいることを考えると、人間社会の闇とすれ違うようだ。

こう言ってはなんだか、日本人とは自分で責任が伴うことはなるべく背負いたくないと考えやすいと思う。嫌なこと、自身に対して非難や注意などの矛先が向けられることだけは避けたいと考えている人、決して少なくないと思う。別の事例でやってもいない仕事のトラブルを筆者も背負わされたことがあったが、その時も何故か全て自分が悪く、当事者の名前が出ていないという状況にあったときには、もはや信頼に足る人物ではないと軽蔑の視線さえ向けたものだ。こういう経験をしたという人は少なくないと思うが、ニュースサイトで市民一人ひとりがそうした曖昧なままの情報をサイトに記載することで自分に何かしらの影響を及ぼすことだけはないように思っているはず。

そのため日本ではそうした最悪、嘘の情報を掲載したという事実で濡れ衣を着せられてしまい、自分が全ての責任を負わなければならなくなった、といった状況にならないためにもと取る行動は、『傍観すること』、これに限る。傍観しているだけならまだいいが、昨今のネット上を閲覧していると分かるとおり、顔が見えないことをいい事に誹謗中傷を平然と行う人がいるため、時に事態がややこしいことになったりもする。それも込みで、当事者になるよりも傍観者で俯瞰しているだけが最高の状況だと、そう感じてスタンスを崩さない人が多数なのかもしれない。

プロでなくてもなれる気軽さ
市民ジャーナリズムというのは何も本格的に記者としての経験がなければなれないといった、そんな規則は存在していない。規則がなければ経験や資格といった記者として活動するために必要な技術を磨く事は、基本的に求められない。そう、市民ジャーナリズムを展開するために必要な事はほとんど存在しておらず、誰でもその気になれば諸手を上げるだけで誰でも記者として活動することが出来る。だからこその市民ジャーナリズムだが、当然ながらそれはそれで問題がある事はいうまでもない。

市民記者がもたらす問題点

いわばフリーランスのライターと同じようなものなのだが、中には何かしらの仕事をしながら記事作成を行っている人もいるかもしれないが、それでも情報をキチンとある程度まとめて発信していなければならないため、いくら自分達はプロではないといってもすでに情報を発信した時点で責任を背負っていることをキチンと理解していなければならない。ただそれを把握できていない人もおり、これ見よがしに特集した記事で偏見や偏向じみた内容のものを掲載してはいけないのは何処でも共通している。

では具体的に、市民記者という立場を利用して偏向じみた内容の記事を作成して、著しく人権そのものを軽んじた発言をまとめた記事を書いてしまった例を参考に見てみよう。

痴漢された女性が悪い?

例として紹介するのは、今から8年前となる2006年に起こった『滋賀電車内駅構内連続強姦事件』についてだ。覚えている人もいるかもしれないが、当時この事件が報道されると同時に市民記者が参加している情報サイトにも、同じように記事が特集されることとなった。しかしその内容があまりにも内容を偏見的、表層的、そして利己的に物事を見ていなかったため多くの批判を巻き起こすこととなる。当時掲載された内容とは、下記のようなものだ。

電車やバスに乗り合わせた見知らぬ女性に、『この暴行事件で、悪いのは誰だと思うか?』と聞いたところ、はっきり答えない人がほとんどだった。そうしたあいまいな態度こそが暴行を招く。だから、この事件は一番女性が悪いのだ。また、女性に言いたいのは、太ももやパンツが見えるような服装が痴漢を誘発しているということだ。

記者の言い分として展開されたものらしいが、何をどう考えたらこのような発言が出来るのかというのもあるが、ひしひしと感じるのは『自分は記事を書いただけで、別に問題を起こしたわけでは無いから関係ない』、そんな責任転嫁を思わせる内容には霹靂してしまう。

この事件での争点とするべきは、被害者となった女性たちが脅されて屈したということに対してだが、素性も知れない人間に対して強気に出れるほど人は強いモノでは無い。また殺すと明言しているにも関わらず、そこで抵抗などしたら本当に自身の身に被害が及ぶかもしれないと恐怖に身がすくんでしまうのは当然だ。それを客観的な視点でしか物事を観察しておらず、むしろ被害にあったのは女性たちが男性を先導するような様相をしていることそのものが間違っているなどと、言ってはならないことを口にしてしまう。

これを被害女性たちがどのように受け止めるか、自分たちが抵抗しなかったのが悪かったのかと考えてしまえば、最悪の展開になる可能性だってある。言葉の暴力というが、ネット上で自分たちも犯人の男と同様に加害したと思わされるなど、モラルが問われるところだ。

この事件では電車内のトイレで行われていたようだが、そのことに他の乗客が気づいていながらも車掌に連絡しなかったという問題もあるため、そういうところまで深く掘り下げていなければならなかったが、被害女性たちに対しての中傷などといった論点がずれすぎている記事を作成した記者に対して憎悪すら抱いてしまう。

市民記者とはいえ、情報を発信する立場にある人間だからこそ信憑性かつ、起きた事件やテーマに対して1つの視点に捉われる事無く、多角的に物事を観察することが求められている。しかしこうした根も葉もない、また強者の論理といった問題の軸をそもそも捻じ曲げようとしているなど、1つの記事で誰かの人生を壊しかねないということを考えなくてはならない。